2017年07月25日

説教題「御言葉を行う人」

日時;4月24日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
ヤコブの手紙1章22−25節
礼拝順序
 「御言葉を行う人になりなさい」。教会聖句の言葉です。一年前も同じ箇所の言葉を礼拝で聞きました。ヤコブは「行う」ということについて説明を加えています。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。」「自由をもたらす完全な律法」とは主イエスの言葉です。そして「一心に見つめ」、「守る」という言葉は元の聖書の言葉では「傍らでのぞき込む」、「傍らに留まる」と言われています。ちょうど、主が葬られたはずの墓、空っぽの墓をのぞき込んでいる弟子たち・婦人たちの姿です。彼らはそこに何か起こるのではないかと期待しながら留まっていました。
 昨年の礼拝では「僕を支えた母の言葉(野口嘉則)」を紹介しました。「あなたは素晴らしいんだから」という母の言葉が自分を支え続けたという本です。この言葉を受け入れられなかった頃、この言葉は彼にとって力にはなりませんでした。けれども、本当に自分に向けられた真実の言葉として聞くことができた時、彼はその言葉に留まり生涯を支える言葉になってゆきました。この一年、主の言葉を見つめ、それが自分の支えになったことはありましたでしょうか。
 どうして人は、なかなか主の言葉に留まれないのか。その一つは聖書の言葉が自分の現実と離れているところにあると思います。聖書の言葉は変わりません。しかし、私たちの生き方や考え方は時と共に変わって行きます。これまで良かったものがそうでなくなり、これまでできた事ができなくなります。それと共に聖書の言葉の輝きは色あせ、力の無い時には、むしろ、プレッシャーのように感じてしまうこともあると思います。また、自分への命令と受け取ってしまったり、重荷や窮屈にしか感じられなくなってしまう時もあります。
 アダムとエバがそうでした。彼らには破るべきではない神との約束がありました。エデンの園の中央に生えている木の実だけは食べてはいけない。彼らは豊かで自由でした。けれども、たった一つの戒め・約束。その為に彼らは不自由を感じました。いつも満たされないまま過ごしていたのです。決まり・掟というのは、言われたとたん気になってしまうものです。今まで気にも留めていなかったのに禁止と言われると不自由さを感じる。反発したくなる。その時、心の中にあるのは、相手への不信であると思います。相手は自分に意地悪しているのだ。けれども、神が彼らに戒めを与えたのは別の理由でした。例えば、母は子どもに向かって、火に触れてはいけないよ。危ないからと言うと思います。これは子を守ろうとする言葉です。もしも、子の事はどうでも良いと思っていたら掛けない言葉です。神もまた同じです。それなのに、どうして意地悪と感じてしまうのか。神との交わりが確かでないからです。
 ペトロは主イエスに「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われた時、激しく反発しました。ペトロのセルフイメージとは真逆な姿のことを指摘されたからです。彼は裏切るような奴は駄目だ。絶対自分はついて行くと思っていました。主は自分のどこを見ているのか、不信になったと思います。けれども、ペトロは主の言われた通り、後で三度知らないと言ってしまう。絶対成りたくないと思っていた姿に自分が成ってしまったのです。彼は何度も主の言葉と向き合い自分とも向き合ったと思います。けれども、気がつくわけです。自分は三度、否定してから自分の愚かさに初めて気がついたけれども、主は既にこの私の姿を知っておられた。それなのに、お前は駄目だと言わず、招き、友になると言い、あなたの為に死ぬと言ってくれていた。彼は気がつくわけです。既にこの自分は赦され、受け入れられ、愛されていたことをです。
 初めは受け入れられなかった主の言葉と向き合い、留まり、彼は言葉のひとつひとつの中に、主の変わらない自分への思いを見つけました。そして、伝える者となってゆきました。主の言葉は、すぐに受け入れられる聞き心地の良い言葉ばかりではないかもしれません。けれども、自分と向き合わざるを得ないとき、自分の価値が分からなくなるとき、それはペトロを守る言葉となりました。礼拝から送り出される生活の中で、主の一つひとつの言葉を通して、主の変わらない自分への思いを見つける一年にしたいと思います。
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2016年06月17日

説教題「神の前に立つ共同体のための戒め」

日時;1月31日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
マタイによる福音書5章27−30節
礼拝順序
 十戒の第7の戒め「姦淫してはならない」を聞きたいと思います。日本語の辞書で姦淫を引くと「不正な男女の交わり」と出てきます。いわゆる不倫です。けれども、これを不倫の禁止と読み替えてしまうと、この戒めを小さなものにしてしまうことになります。「姦淫してはならない」が第一に言っているのは婚姻関係を害することの禁止、結婚の破壊の禁止です。積極的に言い換えれば、結婚の誠実さを求める戒めとも言えます。さらに広げれば、約束に対する誠実さを言っている戒めです。
 どのような思いで神がこの戒めを定められたか、天の御心を主は教えようとしています。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」「他人の妻」という言い方ですが、言わんとしていることは異性をということです。主は目や心をも問題にされています。
 こういうことを聞くと、あの人はどうか、この人はどうか気になります。けれども、十戒や聖書の言葉は人に向かって読むものではありません。自分に向かって読むものです。十戒には三用法があります。一つ目は倫理や道徳として用いる用法。十戒は、この枠の中で生きなさいと神が命じて人に与えられた倫理です。二つ目は自分の罪の姿を知る為に用いる用法です。守れていると思っている自分、しかし、その本当の姿に気がついてほしい。主イエスがなさっているのはこれです。そして三つ目は、今まで守れたか否かを問わず、これからは守ろうと思って十戒を肌身離さず持ち歩くことです。私についてきなさいとの言葉に応えた弟子たちは何度も躓きながら、自分の罪に気がつかされながら、しかし、それを赦されたことを知らされながら歩き続けました。主と共に歩むというのは十戒とも共に歩むということです。
 主は、どうして私たちの今の心の中まで気にされるのか。今のあなたに気がついて欲しいということに加え、将来に立って今の自分を見て欲しいと願っておられるからです。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」と言われています。地獄の話がされています。地獄は将来のことです。将来、皆、神の前に立ちます。終わりの時には全ての意味が明らかになると言います。苦しみの意味、喜びの意味がわかります。私たちの全ても明るみに出ます。その時、その男女が共に立てない関係になってはいけない。妻は夫と共に立てるか。主はその将来の視点に立って今を顧みて、時が来たら一緒に立って欲しいと願っているわけです。
 心を問う、この戒めは神の心にも関係しています。姦淫という言葉は預言書に多く出てきます。例えばホセア書です。神はホセアに命じます。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(3:1)ホセアにはゴメルという妻がいました。しかし、彼女は他の男のところに出て行ってしまう人でした。そのゴメルの所に行け、買い戻し、連れ帰れと神は命じているのです。彼はどんな気持ちであっただろうかと思います。神は、その時の思いが私の思いだと言われます。ホセアは相手を赦して迎える度、神の心が分かってくるのです。
 神はイスラエルの父祖、アブラハムとの誓約の言葉の故に、エジプトからその子孫を救い出し、守られ、愛される方でした。神は誓約・約束の言葉に忠実な方です。そして結婚式の誓約の言葉は神の誓約のひな形と言われます。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ書5:25)ある人は結婚生活とは神の愛を知る学校だと言います。キリストがご自分を犠牲にして私たちを愛したように夫婦は共に愛することを誓う。主イエスが、私たちの心の中まで問われるのは、この神の愛の元へと立ち返らせ、迎えるためです。短い言葉のこの戒めには主の誠実な思いが詰まっています。
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説教題「命は誰のものか」

日時;1月24日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
創世記9章1−7節
礼拝順序
 十戒の第六の戒め「殺してはならない」という言葉を聞きたいと思います。なぜ、殺してはならないのか、その理由ははっきりしています。命は神のものだから、あなたの勝手にしてはならない。私の命も私のものではありません。神のものです。まして、他の命は私が自由にできるものではないのです。
創世記には、人に動物の肉を食べることが許された時の言葉が記されています。
 「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」神が天地を造られたとき、人は実のなる植物や穀物を食べるように命じられていました。ここで初めて動物を「あなたたちの食料とするがよい」と言われます。そして同時に注意も為されています。「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」
 血は命の象徴でした。動物の肉を食べと良いと言われたからといって命を自分の自由にしてよいのではない。命は神のもの。しかし、食べてよい。生きるために神のものを頂いていること彼らは動物を食べるために殺す度、食前の祈りをする度、思い起こしていたと思います。
 加えて人の命に対する賠償のこともここで言われています。「あなたの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。・・・人は神にかたどって造られたからだ」。血を流すというのは、命を奪うこと、殺すことです。そのとき、神は必ず報復すると言われます。人は神ご自身にかたどって造られた大切な存在だから、誰であろうと手をかけることは許さないということです。神はここで、私たちの命に対して絶対的な所有権を主張しています。
 この戒めには目的語が記されていません。その為に私たちは、この戒めの範囲を小さくして自分の生活から遠ざけようとしたくなります。けれども、主イエスはこれを拡大されます。「…昔の人は、『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも、裁きを受ける…(マタイ福音書5:21-)。」。「昔の人は」というのは旧約のことです。主イエスは私たちの知っている戒めを徹底されるのです。主の祈りで「御心が天になるごとく、地にも」と祈ります。主は地上のあなたがたは、こう知っているでしょう。しかし、天の思いはこうだと仰って、腹を立てる者、馬鹿、愚か者と言う者、それも殺人だとお教えになるのです。『ハイデルベルク信仰問答』では無視をすることに既に殺人の根があると言います。存在の否定です。もしも、学校や会社で一日中無視されてしまったら、もう来られなくなってしまうと思います。そして、家に帰っても家族に無視されたら。家にも居場所はなくなってしまう。もう生きてゆく力はなくなってきてしまうと思います。人の心に血を流すことは簡単です。その人の大事にしているものを貶すだけでよいのです。それを言うだけで、人を殺すこと、人の心から命を取ることができてしまいます。それを思うと、私たちは、この一つの戒めですら十分に守れない存在なのだと思います。不思議なことに、十戒は守りなさいと命じられていますが、守れますという保障はされていません。ある意味では、人には十分に行うことのできない戒めなのです。
 今年度の教会聖句は「み言葉を行う人になりなさい」です。ここで言う「行う」とは、御言葉を一心に見つめる人、その言葉に留まる人だと言われています。十戒は、できるできないを計るものであるよりも、いつも傍らに置いて、今の自分の姿や、神の思いに気が付くためのものなのだと思います。
 放蕩息子のたとえ(ルカ福音書15:11-)には罪や言いつけ(戒め)という言葉が出てきます。次男は父の言いつけに背きっぱなしです。しかし、我に返って父のもとに帰って来たのは、いつの間にか戒めを踏み越えていたことに気が付いたからです。彼は今の自分の姿を十戒に照らしたのです。そして、父は帰って来た次男を喜んで迎えました。主イエスの言葉は時に厳しく、私たちへの裁きの言葉でもあります。しかし、その裁きをご自身が担おうとしているからこそ、おっしゃった言葉でもあります。主が裁きを担ってくださるのは、私たちが父のもとに帰って行くことができるためです。
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説教題「時を思う戒め」

日時;1月17日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
使徒言行録16章25−31節
礼拝順序
 再び「あなたの父と母を敬え」という十戒の言葉を聞きたいと思います。十戒は二つだけ、何々せよと積極的な言い方をしているものがあります。安息日の言葉と、この戒めです。そして、どちらも「時」に関する戒めです。安息日の戒めが時に関するものであることは明らかです。そして父と母を敬えという戒めも父母と子、先祖と子孫という時の中に自分があることを教えます。信仰告白という言葉は「同じ言葉を言う」という意味があります。代々の聖徒たちと同じことを私も言う。信仰告白は、このような時の中に広がる信仰の話をしているわけです。父母を敬えと言うとき、自分もそういう大きな歴史の中に存在していることを思い起こします。
 けれども、誰もが父母と同じ信仰を持っているわけではない。大きな信仰の歴史の中に自分を発見したとしても、それで直接に父母と繋がることはできないという方が殆どではないかと思います。その場合、この戒めは意味をなさないのでしょうか。そうではないと思います。安息日の戒めが、主の創造の業を思い起こす為の日であったように、父母を重んぜよという戒めも主の創造の業の中に生きていることを思い起こさせます。
 誰もがヘソを持っています。ヘソは父と母を通して造られた被造物であるというしるしです。私たちは最初から自立していたわけではなく、おむつを替えてもらったり、教えてもらったり、そういうことを恵みとして与えられてきた存在、ずいぶんと依存的な存在です。しかし、いざ自分で様々なことができるようになると、途端に人の不十分な所が許せなくなってしまいます。思い返してみると、私たちが腹を立てるのは、相手が子どもじみた事しているからというものが殆どだと思います。
 嘘をつく、約束を破る、遅い、自分のことばかりで人のことを考えない。皆、子どもっぽいことです。それらの積み重ねで赦せなくなります。けれども、その時、自分もわがままで何もできなかったこと、自分のことばかりであったことを忘れてしまっているのではないかと思います。人は助けてもらわなければ生きてゆけないのは、子どもの時だけに限ったことではありません。いくら歳を重ねても、本当は助けてもらわなければ、恥を愛で覆ってもらわなければ生きてはゆけません。それなのに、誰も助けてくれないから、一所懸命自分で頑張る。そして、自分は頑張っているからこそ、人のミスを赦せなくなってしまう。
 父と母を重んぜよ。父母の重みをしっかりと受け止めるとき、自分も誰かに助けられて生きてきた存在であることも思い起こすことができるのではないか、人のミスを見る時も思い起こせるのではないかと思います。
 私たちにとって赦すという事は自分の心の広さに依って我慢することだと思っています。だから、約束を裏切られても1、2回は赦すことができる。我慢することができる。けれども、10回、20回になると、もう約束はしなくなる、関係を切ってしまうと思います。私たちの赦しとは我慢の限界が来たら疎遠に至る赦しです。けれども、親や自分に近い存在の人は関係を切ることができない。だから、わだかまりも消えることがないのではないかと思います。
 赦せない相手から離れること、それは確かに、時に必要なことです。しかし、それは暫定的なことであって救いではありません。救いは神から来ます。人を赦したくない時、いかに自分が被害者であるか、私たちは幾らでも理由をあげることができます。しかし、聖書は、また別のことを私たちに告げています。この時、一番悲しみを負っているのは神ではないですか。互いに愛し合うように一人ひとりを造られ、今支えておられる神の思いを踏みにじっていないですか。
 主イエスは、神の悲しみを背負って十字架に掛かられました。私たちが負わせた悲しみ、痛みです。私たちは主に背負われているからこそ、今、礼拝にやってくることができます。その礼拝を通して知らされます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」この救いは私だけでない、家族も一緒に主に担われると言っています。私たちの家族、離れることのできない近い隣人、それは私たちだけで負っているのではない。主が共に背負ってくださる。主に私が担われ、家族も担われていることを知るところから、赦しの生活は始まってゆくのだと思います。
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説教題「あなたの父と母を敬え」

日時;1月10日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
申命記6章20−25節
礼拝順序
 十戒は二枚の石版に記されたと言われています。一枚目には神への愛の言葉、二枚目には隣人への愛の言葉。その隣人愛の戒めの最初が「あなたの父母を敬え」です。隣人とは私たちに近い人たちの事です。その最も近い人は父母。生まれる前から養われてきた隣人です。この戒めを聞いて聖書も親孝行をせよと命じていると感じる方もあるかも知れません。けれども、少し違います。もしも親孝行の戒めであれば、その目的は父と母の長生きということになりそうですが、十戒はこう続きます。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」父母のことでない。神が、あなたここにと命じられた土地で、私たちが長く、幸いに生きる事ができる。誰もが長生きをしたいと望むかも知れません。しかし、神御自身もまた、それを望んでおられます。その為に、まず最も近い隣人である父と母を敬え。それが要になるというのです。
 聖書のいう「敬う」とはどういう意味か。聖書の言葉では「重んじる」、「重みを与える」という言葉が使われています。父と母を重んぜよ。自分の父、自分の母。その相手に相応しい重みをきちんと自分で理解すること、その重さを知って生きる事が命じられています。
 父母と関係なく自分は生まれたという人はいません。私たちの生活・命は両親との関わりの中で始まりました。そして同時に、その父と母に神があなたという命を委ねられたことも見逃せません。あなたを、この父母に、この場所にということです。そうであれば父と母を軽んじることは自分の命を軽視することに繋がってきます。時に生まれた境遇、場所を呪うことがあるかも知れません。しかし、不思議な事に、自分に起こった嬉しかったことの一切は、神が、他でもない、その両親、その場所を通して私に与えられた。感情的にはそう思えなくとも、存在論的に言えば、大切な人との出会い、感動、悲しみ、その全ては、その父母なくしてはあり得ない。それ故、父母を重んじることと自分の人生を重んじることは切り離せないのです。それは神との出会いもそうです。聖書は「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」、私たちの今日があるのは、主が私たちの祖先・父母を導き出したからと言います。しかし、だから両親に感謝せよと言うのではありません。聖書は、ここで約束に誠実な方である神の話をしています。神が救いの契約を為さったのはイスラエルの人たちではありません。アブラハムです。彼らの父祖アブラハムとの約束に忠実である故にイスラエルの人たちは救い出され、今も神は彼らの神でいてくださる。先祖との約束を今も果たしてくださっているのです。
 場合によっては、私たちは人間的に父と母を赦せない、愛せない。十戒の言葉が他の何の言葉よりも重くのし掛ってくることがあるかもしれません。敬うどころではない、憎しみの為にねじ曲がった人生を作らされてしまった。そういう方もあるかもしれない。けれども、一度、聖書の言葉を素直に聞いてみたいと思います。家族の間には、いつの時代も緊張があったようです。旧約にも度々出て来ます。おそらく、人が生きる時、どちらが悪いというのではなく、何かしらの歪みはできるもののようです。そして、その歪みからの解放は人の力ではどうにもならない。ただ神が担ってくださることによってのみ、私たちは救われます。私たちは、その人を赦せないけれども、神はその人を愛しているが故に、今の私たちがある。その人の不誠実さに関わらず主は誠実にです。
 聖書は、主はあなたの祖先を愛されたが故に、その子孫であるあなたがたを選ばれたと言います(4:37)礼拝者である私たちの今の姿から、神が私たちの両親を愛されていたことがわかるのだという言葉です。主イエスが父と母を捨てなさいと仰る場面があります(マルコ10:29-)。その本意は、この神の愛の中で関係を受け取り直してほしいということです。私たちの神への賛美の源にも、私たちの感じる嬉しさの源にも、父と母に対する神の愛があります。その事実を素直に信じ受けとめる時、いつのまにかねじ曲ってしまった人生に対する解放があるのだと思います。そして、誰かの父と母になっている私たちに向かって主は命じられます。「将来、あなたの子が・・・尋ねるときには・・・こう答えなさい。」主の誠実の中に生きる者として、それを伝える役目も果たして行きたいと思います。
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説教題「安息日の主は誰か」

日時;1月3日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
マルコによる福音書2章23−28節
礼拝順序
 「ハレとケ」という言い方があります。ハレが非日常、ケが日常。ハレの日は仕事をしない日です。仕事を中断して祭りをする日です。例えば正月、成人式、結婚式など。けれども、楽しいお祝い事以外にもハレの日が実はあると思います。会社勤めしている方は出社している間、そこはハレの舞台です。毎日の務めだから、会社は日常でしょうと思うかも知れません。けれども、家族の結婚式の日に、今日は家でゆっくりしたいので、やっぱり行かないということが許されないように、子どもが泣いているので会社を休みますでは通らない。日常に優先して仕事がある。つまり、私たちは毎日ハレの生活をしているわけです。
 ハレの日というのは或る意味で、その人が主役になる日です。勤めに出ている人もそうです。自分の成果が認められるためにがんばります。ハレの日は自分を認めてもらおうとする日です。しかし、そうであえば、私たちの毎日は、気が付かない間に無理をしている毎日なのではないかと思います。もしも、毎日がハレの日、祭りの日なのであれば人は日常を失います。休みなき生き方では人間としての本当の生き方は分からなくなってしまいます。だからこそ、神は安息日を定められました。安息日は人の祭りごとを中断して、本当の日常生活を取り戻す日。「け」を取り戻す日。確かに、安息日・主の日はハレの日です。集まって礼拝をします。けれども、その目的は私たちが休むことにあります。休んで、神の前にある一人の人であることを取り戻す日です。
 今日はマルコ福音書に書かれている安息日の言葉を聞きました。主イエスの言葉です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」多くの人たちにとって、人は安息日の為にあると考えられていました。かつて、エルサレム神殿を失って礼拝が出来なくなった時、安息日の意味は大きな意味を持ちました。異教の国の中で、七日毎に家族揃って休むことによって、イスラエルはどこに行ってもイスラエルであり続ける事ができました。しかし、それが転じて、安息日を守ることが、自分の正しさ、自分の義を計る物差しになってゆきました。守っていれば神の民イスラエル。守れなければ罪人。戒めを守ることが、その人の功績として数えられるようになっていったからです。本来、安息日は神の御業が、今も私たちの間に起こっていることを覚える日であって、神の恵みを味わう日でした。それを、いつも通りの仕事をしたままでは、気が付かないからこそ、日常の手を辞めて、神の御業に心を向ける。それなのに人を生かすはずの安息日が、自分を縛るものになっていました。だから、心の中では解放されたいと思っていました。
 主イエスは「安息日は人のために定められた」と言った後「だから、人の子は安息日の主でもある」と仰いました。もしも、安息日の規定からの解放を告げるのであれば、安息日は人のためとだけ言えば良かったのです。けれども、主は続けて「人の子は安息日の主でもある」と仰いました。「人の子」という言い方は、主イエスが神である事を現されるときの言い方です。主イエスが、御自身を安息日の主だと主張されたのは、安息日は人の義のためにあるか、神の義のためにあるのかということです。安息日は、人が自分の義を立てようと企てる日常を中断して神の義を覚える日です。善いこと、命を救うことを人の義(=人に正しいと認めて貰う)の為に行なう事は安息日以外にもできます。
 もしも、安息日に行うのであれば、それは神の義(=神の前の正しさ)を求めてのことなのだから、神の業の参与として行いなさい。今、神の善き御業が、自分の手を通して起こっていることを喜びなさい。自分の功績の為の手の業は全て休みにしなさいと言っているわけです。そもそも、私たちは自らの業で神の義を立てることはできません。代わりに主イエスが為してくださいました。主イエスは、神の義よりも人の義に生きてしまう私たち、その為に休むことを忘れてしまう私たちの為に苦しみを受け、十字架に掛かり、安息日に行われるべき神の義を全うされた方です。だから、イエスは安息日の主なのです。主の日は、神の前の正しさを思う日です。即ち、主イエスの御業を思う日です。新しい年も、主の日の度、心や手や口で、その主を誉め讃えることができますように。
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2016年03月27日

説教題「共に安息を喜ぶ日」

日時;12月27日/2015年10:30より;向河原教会 主日礼拝
出エジプト記20章8−11節
礼拝順序
 安息日は礼拝の日です。けれども、同時に家族の日でもあります。十戒は「いかなる仕事もしてはならない」と命じた後、それをすべき人々のリストを挙げています。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜もあなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」ここに並べられているのは皆、家族です。
 血縁関係にある家族はもとより、奴隷も含めて家族。家畜もそこに含まれます。家族以外に寄留者も挙げられています。町の門の傍には身寄りのない者がいました。多くは経済的な理由で家を失った人。故郷を離れて過ごしている旅人。外国人です。かつて自分たちもエジプトで奴隷だったこと、土地を持たない寄留者であったのに神に救い出されたことを思い起して、法律の保護や生活の基盤を持たない人たちを家族のように受け入れる。それが、十戒が望むイスラエルの社会でした。
 安息日・主の日は手を休めて心を神に向ける時ですが、それは一人ではなく共にです。神を礼拝する生活とは家族を捨てて一人真理への旅を始めるとか、あるいは信仰を心の中の問題として考え、生活は以前と変わらないというのでもない。神の御業を信じ、神に思いを向けるからこそ、より家族に仕えたいと思いますし、その事を通して、その家族は大きく広がってゆく。そういうものであると思います。そうであれば、安息日と言うのは単に仕事をしない日なのではなく、神の御心を求めて、休めない者の為に仕える日、仕事をする日なのではないかとも思います。
 例えば、誰か家族を助けようとする時、自分の仕事、自分の時間を中断しないと助けることはできません。J・ウェスレーという教会指導者は、主の日は歩いて教会を回ったといいます。馬を休ませるために自分の足に仕事をさせたのです。この時、馬に乗って駆ければ、間に合ういつもの予定を捨てています。自分の時間を捨てる時、家族に仕える時間を得ることができます。家族に仕える時、確かに自分の手は働いていますが自分の仕事からは離れている。ですから、実はお互いに休息を得ることが出来ているのではないかと思います。
 重要なのは共に同じ時を過ごすということです。不思議な事に十戒は、共に礼拝しなさいとは命じていません。もちろん、信仰を共にする者たちと共に集まって主の御業にアーメンと言えることが安息日の言葉の最も大切な意味ですけれども、しかし、ただ「あなたの仕事を離れて」休め。それだけを告げています。そして、それこそがイスラエルの信仰を支えました。旧約の時代、彼らの礼拝する場所、エルサレム神殿はバビロンの兵士たちに焼き払われてしまいました。もう礼拝は出来ない。けれども安息日は皆で集まって祭りや礼拝をする日ではなく家族で休む日であったために神殿を失った後も守られ、彼らは場所は違っても、同じ時、同じ信仰を保って危機を乗り越えてきたわけです。
 安息日の言葉は何かを作り出そうとしている言葉です。場所は違っても同じ一つの時を過ごす民、大きな家族を作り出そうとしています。私たちの家族は、今、一つになっていると言えるでしょうか。一見、平穏な家族であっても、一人ひとりの過ごしている時間は皆バラバラではないかと思います。同じ家に住んでいても食事を共にすることは、いつもできるわけでない。できたとしても、食事が終えれば自分の時間の為に部屋に戻ってしまう。親子や夫婦、お互いのことに充分理解できないまま、それなりに過ごしているというものではないかと思います。
 もちろん、十戒は家族の為に守るべきものではなく、神が定められたからこそ守るべきものですが、しかし、この戒めを与えられた神が私たちのことをどのように御覧になっていて、どういう存在にしようとなさっているのかよく分かる戒めです。神は安息日という時を通して家族が一つになること、その家族が大きな輪を描いて広がってゆくことを望んでおられます。教会は、その大きな主の家族です。神は、そういう存在として私たちが、この地に生きている事、それを望まれておられます。
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説教題「クリスマスを迎えよう」

日時;12月20日/2015年10:30より;向河原教会 クリスマス礼拝
マタイによる福音書2章1−12節
礼拝順序
 東方の占星術の学者たちがユダヤ人の王として生まれた方を礼拝したという物語を聞きました。ここには二組の対称的な人物が描かれています。一方は占星術の学者たち。もう一方はユダヤの王ヘロデです。東方の国では星を見るという事が盛んに行われていました。彼らは天体の動きを見て地上に起こる出来事を占う人たちでした。新しい王の誕生の星と信じ、旅を始め、エルサレムに到着しました。ここに来たのは道に迷ったからではありません。新しい王は、当然、宮殿にいるだろうと思ったからです。
 そして、ヘロデ王に尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いてヘロデ王は「不安を抱いた」と言います。彼はローマ帝国によってユダヤの地域を任された王でした。ローマ帝国に雇われた王。ローマの意向によっては、簡単に、その王座を退けられてしまう王でした。
 彼は別の王の誕生の知らせに不安を抱いたのです。そして祭司長や律法学者たちを集めて、メシア・救世主はどこに生まれるのかと尋ねます。ユダヤのベツレヘム。そしてヘロデは学者たちに言いました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。この言葉は口実でした。本当は見つけ出して殺してしまいたい。そういう思いでした。クリスマスというのは王を迎える日です。私たちではない別の王。その時、ヘロデはその王を抹殺してでも、そのまま自分が王で居続けたいと思ったのです。
 どうしてヘロデは新しい王を迎えることができなかったのか。沢山のものを持っていたからです。地位も名誉もお金も。彼はそれを捨てたくなかったのです。それを守るために彼は必死でした。私たちは沢山の物を持っていれば、余裕があって自由になれると思っています。けれども、そうでない。多くのものを持っている人ほど、多くの不安を抱えながら生きています。今の自分であり続けるために自分のものを守らなくてはならない。自分を脅かす者を排除しなければならない。これがヘロデの感じた不安です。
 一方、占星術の学者たちは先立つ星に従って進み、救い主を見つけました。マリアと一緒にいる幼子を見つけ、彼らはひれ伏して拝み、「宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました。「宝の箱を開けて」と言われています。取って変えることのできない宝。これがあるから私は生きていける。そういうものを献げて彼らは喜んで帰って行きました。
 一方には握りしめている人がいます。彼は一時も安心できません。たえず不安です。他方には、自分の宝を献げて手ぶらになって喜んでいる人がいます。聖書はここで、人が深い安らぎ、喜びを得るのは、本当の王に自分を献げることの中にあると伝えているのだと思います。
 人は、何かを得ることで不安をなくすと言うことはできないのだと思います。それを失わないために、絶えず怯える生活が始まります。そして「あの人さえいなければ、自分は安心できるのに」というヘロデと同じことを心に思います。「あの出来事さえなければ、今は全然違ったはずだ」自分の過去さえ排除したくなります。過去の自分を受け入れられない。愛せない。自分の過去が今の自分を脅かす。将来さえ不安になってしまいます。
 しかし、クリスマスは握りしめている自分を主に献げてしまう日です。キリストをわが主と迎え、自分の過去、今、将来を、この王に託してしまう日。この日、私たちは初めて自由に、深い安心の中に生き始めることができるのです。
 占星術の学者たちは、どうして宝を献げたのでしょう。この幼子が宮殿ではなく、私たちと同じような、ありふれた家の中にお生まれになったからです。この幼子はインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれると言っています(1:23)。神は遠い宮殿の中におられない。何も持たない私たちのような者と神は共におられる。彼らはそれを発見しました。だから、彼らは手放してしまったのです。誰もが宝を持っています。けれども、それが私たちを救うのでない。死の淵に横たわるとき。自分の罪を知らされて一人涙するとき。周りの不信頼の中に立ち続けないといけない時。それは私たちを救ってはくれない。けれども、その時も神は私たちから離れない。今日、その救い主がお生まれになったのです。
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説教題「救い主はどこに来られたか」

日時;12月13日/2015年10:30より;向河原教会 主日礼拝
マタイによる福音書1章1−17節
礼拝順序
 マタイ福音書の最初。「イエス・キリストの系図」を一緒に聞きました。系図というのは旧約の歴史のもう一つの書き方です。旧約は創世記から物語の書き方で、この世界のこと、神と共にある民の歴史を描いています。一方、物語でない方法で民の歴史を記しているのが、この系図です。
 系図の人物を一人ひとり挙げて語り直すと旧約の歴史を全部話すことになります。マタイ福音書は旧約の歴史をここで語り直し、イエス・キリストは、この歴史・系図を通って来られたのだと告げているわけです。けれども、ここにはもう一つ大切な事が書かれています。主イエスがダビデの子孫として、この系図から出てきたということとは別に。
 主イエスは、この歴史「から」ではなく、この歴史「へと」来られたということをです。系図という言葉。これを元の聖書の言葉にするとビブロス・ゲネシスです。ビブロスは本。ゲネシスは「造り出す」と言う意味の言葉です。また「創世記」と訳される言葉でもあります。
 つまり「イエス・キリストの創世記の本」。神は初め、何もないところに光を造られ、そして、全てのものをお造りになったと旧約の創世記に記されています。同じように主イエスは、ここで新しい創造を始められました。クリスマスの出来事というのは、それより前の人間の歴史の続きではない。人間の歴史・系図の中に神が来られた。ここでまったく新しいことが始まっているのです。
 系図を読むと、まずイスラエルの族長たちの姿があります。ここには長男の名ばかりが上がっているわけではありません。有名なヨセフの名もありません。神は必ずしも長子や優れた功績を残した人を選ぶ方ではない。その人の資質に関わりなく恵みを与える方なのです。続くダビデ王、その後の王たちもそうです。彼らは、必ずしも神の言葉に従って生きた者ではありません。神に背を向け、神を捨て、自分の欲のため贅沢のために生きた王たちです。彼らの王国の歴史はバビロン捕囚によって終わります。
 移住後の者たちの名前はどういう人物であるかよく知られていない人たちです。彼らは元王族として他の国の支配の中で生きました。誉れあるというよりも惨めな生き方です。かつて栄華を誇った者たち。自分たちの素晴らしい話をするときは、いつも過去形で話さないといけない。目の前には何もないのです。しかし、そこへと歩みを進めていかないといけない。この系図はダビデの子孫であるという誇り高い系図でありますが、同時に、特別に神に選ばれ、愛され、しかし、その神を捨てた者たちの系図でもあります。
 系図を語るとき、同時に悲しみや悲惨さを語らなければ語りきれない歴史。目を凝らしても、そこに救いが見出せない歴史。しかし、そこから新しい創造が始まるのです。この人間の歴史の中に主は来られ、新しい歴史が始まってゆきました。新しい歴史は喜びと共に語られる歴史です。イエス・キリストの創世記はクリスマスと共に始まりました。
 主は、私たちの歴史に何をもたらしたのか。ヨセフへ受胎告知(1:18-25)には、その一端が描かれています。マリアと婚約していたヨセフの耳に一つのニュースが届きました。マリアの妊娠です。ヨセフは正しい人と言われています。彼は、正しい手続きを踏んで、マリアのことを不貞の罪で告訴することが出来ました。しかし、彼は、それを望まず、自ら身を引くことを決意します。婚約が無くなれば、不貞という罪も無くなります。彼は、マリアへの愛と神の律法への誠実さの故に律法を守りつつ、彼女を守る道を考え、ひそかに離縁することを決めたわけです。
 きっと彼は悩んでいました。本当にそれが正しいのか。私だけでもマリアのことを信じるべきではなかったか・・。彼の正しさは神の前に足る正しさであったかもしれない。けれども、悩みが深くなる正しさです。彼は一生悩み続けたでしょう。しかし、夢に現れた天使は、彼の思いとは全く別の事を告げるのです。聖霊によってマリアが身籠ったことを信じて、妻を迎え入れ、自分とは関係のない子の父になれ、と。天使は、信じることを必要とする言葉を告げに来ました。これは彼が、彼の愛と正しさによって考え抜いたものとは違うものでした。主イエスは私たちが考えつかなかったこと、人の正しさを越える神への信頼をもたらしに来られたのです。かつて一人のアブラハムから新しい王国を作られたように、主は、人に信じる思いを与え、そして、その私たちの小さな信仰から新しい出来事を始めようとしておられます。
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説教題「安息日という時」

日時;12月6日/2015年10:30より;向河原教会 主日礼拝
申命記5章12−15節
礼拝順序
 再び、十戒の安息日の言葉を聞きたいと思います。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。」という言葉は十戒の真ん中にある戒めです。普通、十戒は神との関係を命じる前半(第1−第5戒)、人と人とに関する後半(第6−第10戒)の2つに大別されるのですが、実は第3から第5戒は、その両者が重なる戒めでもあります。実践されるのは人間同士の関係の中ですが、言わんとしているのは神の事柄です。その中心に第4の戒めがあります。安息日の言葉は十戒の真ん中に置かれるほど大切なものとされているのです。
 申命記に記された戒めは出エジプト記(20:8-)と文言が少し違います。安息日を聖別しなさいと命じる根拠は、創造の御業における安息ではなく、出エジプトの出来事が理由になっています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」
 ここで十戒が私たちに思い起させようとしていることは、あなたは誰かということです。私たちには、自分が誰であるか思い起すために主の日・安息日が与えられています。ですから、安息日の規定の第一義は「いかなる仕事もしてはいけない」ではありません。何よりも言われているのは、安息日を聖別すること(=特別な日として過ごすこと)です。神は、私たちが奴隷の状態から、主によって解放されたことを思い起すために、それを命じられました。そのことを、いつもの仕事を中断することを通して行うのです。休むことが第一義でない。自分にとって特別な日として過ごすために、いつも通りに過ごさない。いつもの仕事をしないのです。
 神は安息日を定め、特別な日とされました。神がそうされました。そして、あなたがたも、特別な日としなさいと言っています。安息日は所謂、神が定めた祝日なのです。日本のカレンダーで祝日や休日の日というのは、たとえ、その日に自分は働いていたとしても、日本人にとっては祝日・休日です。自分は休日なのに働いているという思いで働くと思います。安息日も同じです。現代のキリスト者にとって安息日に休むこと、礼拝することは難しいかも知れません。けれども、この日に休めない人があったとしても、キリスト者にとって、この日は安息の日なのです。神がそう定められたからです。それをあなたのカレンダーに刻め。この戒めが告げていることです。
 私たちは公のカレンダーには無い特別な日を持っています。自分の誕生日や、大切な人との記念日です。自分の誕生日には家族や親しい人に祝って欲しいと思います。もしも、何でもない日のように過ごされてしまったら寂しい。あるいは、大切な人と出会った日、結婚記念日など、特別な関係の人との特別な日。それを忘れていつも通りの生活をされてしまったら、悲しくなるかも知れません。そういう特別な日が主にとって安息日なのです。
ですから、安息日に何をしたか、何をしなかったかではなく、互いに特別な時を共有しているからこそ、私たちは特別な関係なんだ、と十戒は告げているのです。誰かとの記念日というのは、その相手のことを思い起すと思います。安息日は主を思い起す日です。さらに言えば、その主が伸ばされた御腕によって自分がどんな存在にされたのかを思い起す日です。今や、私たちは何かの奴隷でない。昔はそうであったかもしれない。けれども、今は違うのです。
 イスラエルの民はエジプトの奴隷でした。私たちも自分の過去の奴隷でした。過去の罪、過去の悲しみ、過去の栄光。過去に縛られて動けなかったかもしれない。しかし、主イエスが私たちを、そこから解放してくださったのです。この主の記念日は一週間毎にやってきます。一年に一度の記念日ではありません。どうしてか。私たちがどんなに特別な存在か。主は命を捨てて私たちを愛してくださいました。その主の御腕はどんなに力強いか、すぐに私たちが忘れてしまうからです。今でも仕事が王であるかのような生活、逆らえない誰かや、何かの下にある生活、不安の奴隷の生活をすることもあるかもしれない。けれども、それが、もはや決定的ではないこと。主こそ王であること。それを思い起し、自分を取り戻す日。それが安息日です。
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