2018年08月20日

説教題「このうえない喜び」

日時;3月6日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
ヤコブの手紙1章1−8節
礼拝順序
 ヤコブの手紙を読みました。書き出しの挨拶の部分で彼は自分のことを「神と主イエス・キリストの僕」だと紹介しました。彼は主イエスが十字架にかけられるまで主の言葉を信じてはいませんでした。しかし、復活の主と出会い転機が起こったのです。私は主の僕だと。この自己紹介の中に主イエスを神の子と信じ、本当に自分の主として受け入れた、変えられたヤコブであるという意味が受け取れます。別言すれば、正しい父ヨセフも母も、ヤコブに主を知らせることはできませんでした。また、兄弟イエスと共に過ごした生活も、それは主を知る生活ではありませんでした。ただ、復活の主に触れて、聖霊の働きによって心を変えられ、彼は主を知ったのです。私は主のもの、私は主の僕と。
 この手紙は厳しい口調の手紙だと言われます。信仰を口だけ、頭だけではなく行いで見せなさいと何度も勧めてくる手紙です。しかし、それを言うのは、それをすると家族が信仰を持つとか、教会が大きくなるとか、そういう理由ではありません。自分自身の信仰がますます強められるためです。人は信じる思いと信じられない思いの中で揺れ動いている存在です。まだ半分信じられないから、動かないではなく、やってごらん。その時、その信仰が本当だったことが分かる。ヤコブ自身、信じて変えられた人であるからこそ、一所懸命伝えているのだと思います。
 手紙は「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と始まります。誰もが思うと思います。そんなことできるだろうか、と。しかし、彼はそれを問題としていません。闇雲にそう思えと勧めている言葉ではないのです。彼がこう言うのは、その価値を知っているからです。例えば、こんなもの取っておいても仕方ないと思うような物でも、その高い価値を知っている人は持ち主に言うと思います。「捨ててはいけない、それを持っていることをこの上ない喜びと思いなさい」と。ヤコブは試練の価値を知っていました。どんな価値があるのか。彼は「信仰が試されることで忍耐が生じる」と続けます。忍耐が生じることに彼は、この上ない喜びを見いだしているのです。私たちは自分が試練の中にある時、自分の外側である周りの環境が変わることを望みます。危害を加えてくる人がいるなら、その人が去ること。理不尽な仕打ちがあるなら、それが止むこと。けれども試練の中で本当に大切なことは、周りではなく自分の内なるものの変化です。
 試練の時、何が起こるのか。ヤコブは「信仰が試される」と言います。聖書の最もシンプルで大切な言葉の一つに、あなたには希望があるという言葉があります。試練の時、それでもなお信じるか、どこまで信じるかが問われるわけです。忍耐という言葉は留まるという言葉からできています。信仰に留まり耐えるのです。どんな時も、どんな状況でも信仰に留まり希望を失わない。それが聖書の言う忍耐です。私たちの望む周りの状況の変化は一時の解決です。今、苦しみをもたらすものがいなくなっても、今度は別の苦しみが襲うかもしれない。けれども内側に生じた忍耐、その経験、自分で身につけたものは状況が変わっても残り、自分を守るものとなります。ヤコブはそれを言っています。
 けれども、この「試練」という言葉は「誘惑」とも訳される言葉です。様々な苦難は価値ある試練とも誘惑ともなり得るのです。誘惑とは人を神から引き離してしまう力を持っています。だからこそ、ヤコブは続けて「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば・・・神に願いなさい」と続けます。この知恵は一般的な知恵ではありません。言い換えれば神からの言葉のこと。主の言葉そのものです。例えば、誰かに酷い目に遭わされたから、もう無視してしまいたい、とただこう思っているのであれば誘惑です。けれども、十戒の言葉に知恵を求めるならば、それは試練となります。苦難は自動的に試練となるわけではありません。だからこそ、この手紙は「御言葉を行う人になりなさい」(1:22)。一心に見つめ、留まりなさいと言うのです。
 聖書研究会・祈祷会で映画「Son of God」を見ました。ゲツセマネの園の場面で主イエスが「心は燃えても、身体は弱い」と言います。そして「だから、祈らなければ」と言葉を続け、主は祈りに出て行かれました。心ではいつも神と共にあろうと誰もが思います。けれども、身体はついて行かない。だから、祈り、神に言葉を求めなければ、と。印象的な場面でした。私たちも度毎に祈り、上からの知恵を求める生活をしたいと思います。
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説教題「隣人とは誰か」

日時;2月28日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
ルカによる福音書10章25−37節
礼拝順序
 これまで十戒の言葉を読んできました。今回は新約聖書でどのように扱われているかを見てみたいと思います。新約には要約という形を別にして、全部の言葉が出てくることはありません。いつも後半(二枚目の板)の言葉だけが言われています。十戒の前半には神の事柄、後半には隣人に対しての行為、言葉、心が言われていました。どういうことか。それは二枚目の板のことを行ってみると一枚目に指し示されている神を愛するということがよくわかるということなのだと思います。ある教会の教会学校に、子どもの様子を見る為、初めて教会を訪れたお父さんがいました。礼拝の後、その方に感想を聞くと、祈りを聞いて驚いたと答えたそうです。来ていない人の為にも祈っていた、と。普通、世の中では居ない人のことはよく言われないそうです。それなのに来ていない人の祝福を祈っていた。教会に来てみて、どのように隣人が愛されているのかを見た時、そこで礼拝されている神がどのような方か分かるのだと思います。
 十戒の二枚目の板は「隣人を自分のように愛しなさい」と要約されます。主イエスが話された「善いサマリア人のたとえ」は、そのことを教えようとしています。きっかけは律法学者による「では、わたしの隣人とは誰ですか」という問いでした。私たちも隣人を愛するように命じられたら考えると思います。私の愛すべき隣人とは誰か、と。これを反対に言えば、誰を愛さなくて良いのだろうかという問いだと思います。隣人愛が大切と言えど限界があります。けれども自分は愛のない人間ではない。だから、愛すべき隣人はここまでという範囲を作り、線を引きたくなる。それを愛することができれば良いではないか。それ以上は仕方ない。しかし、実はこれは自分を正当化する為の問いです。
 たとえ話にでてくる祭司、レビ人も、これと同じでした。道に半殺しにされた人が倒れていた時、彼らは道の向こう側を通って行きました。助けなければいけないことは分かっていました。けれども助けない自分を正当化する理由も沢山ありました。知らない人である。助けていたら自分も追い剥ぎに襲われてしまうかもしれない。疲れている。家族が待っている。明日も勤めがある・・。けれどもサマリア人は違いました。彼はこの人を助けました。理由は「憐れに思い」です。憐れむとは身体が痛むことを意味します。同情しても身体は痛みません。私達にはわからない感覚です。この言葉は神である主イエスにだけ使われる言葉です。例外がこの箇所です。つまり、主イエスはサマリア人とご自身を重ねて話されているのです。このたとえ話は、こういう風に解釈されてきました。追いはぎに襲われた人は私たち人間。罪に陥って半殺し状態です。そこへ主イエスがやってきて憐れんでくださった。私達は罪赦され、癒やされて宿屋を出て行くのです。
私達は確かに傷を負った存在です。一所懸命自分を正当化して生きている。けれども、自分で自分を救えませんでした。そこに主が来てくださったのです。しかし、たとえはここで終わりますが、主の言葉はまだ続きます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。主があなたの隣人になったように、今度はあなたが誰かの隣人になりなさい、と。隣人は「なる」ものです。誰であるか考えている間もなく、今度はあなたたちの番だと言われます。
 隣人になれと言われると、私達はそんなことできるだろうかと思ってしまいます。しかし、よく読むと、この人は特別なことはしていません。共に一晩を過ごし、わずかなお金を置いて行きましたが、回復するまで着きっきりの看病はしませんでした。旅を辞めることはしませんでした。彼は旅人なりの寄り添い方をして後は宿屋に任せました。ある意味で本当に大変だったのは宿屋の主人だと思います。しかし、主はサマリア人を指して「同じようにしなさい」と言われます。時間がない。力がない。だから助けられないでない。たとえば、5分だけ寄り添い、後は他の人に任せることができます。無責任に聞こえるかもしれない。しかし、確かにそこに愛の業は始まっているのです。主は私たちに別人のようになってまで愛しなさいと言いません。旅人は旅人なりに、忙しい人は忙しい人なりに。あなたはあなたなりにです。
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説教題「むさぼるな、という戒め」

日時;2月21日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
創世記4章1−8節
礼拝順序
 十戒の第10の戒め「隣人の家を欲してはならない」を聞きたいと思います。以前は「貪ってはならない」と訳されていました。十戒の後半には行為に関する戒め、言葉に関するがありました。今回は心に関する戒めです。心に思うことと、いざ、行為に出ることでは大きく違います。しかし、心は神が禁じられた行為が出てくる根源でもあります。第10の戒めは人の罪の最も深い所に触れてきます。心を問う戒めと言いましたが、聖書を読むと具体的なことが言われています。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」一見、盗みや姦淫の禁止と重なるような戒めに聞こえます。なにが違うのか。教会の歴史の中では、一見正しいことをしているようにして、こっそり隣人の財産を奪うことの禁止と解釈されてきました。「隣人の家」に対する貪りの時、問題になっていたのは利息でした。お金ではなく穀物の種や麦の利息です。収穫はあまり多くはなかったそうです。今年の分を売って税金を払うと翌年に蒔くものがない。裕福な農家から麦を借ります。利子は借りた麦の倍。そうすると翌年いよいよ蒔くものが無くなってしまう。仕方なく畑を売り、家を売り、最後は自分を奴隷として売る。貸すという善意の中に発生する、少しでも得たいという思い、具体的には利子のさじ加減ですが、それを誤るとき隣人の家の貪りが始まってしまうのです。ですから、やはり心のありようが問われているのだと思います。
 どうして人は欲しいとか損したくないと思うのか、心を唆されるのか。その理由の一つは、自分が本当に欲しいものを分かっていないということがあると思います。もしも、本当に必要なものを手にしたら隣の芝も青く見えないかもしれない。けれども、自分の必要なものが分からないとき、代わりのものをいくら手に入れても乾く。欲する思いは止まらない。
 もう一つの理由は、自分には神の恵みが不足していると思ってしまうところにあると思います。人は自分の持ち物だけでは、なかなか満足しません。もちろん満足しないことは良い面もあります。向上心や努力の源になります。しかし、今の自分の状態は自分の不足、自分の欠けだと思わないで、むしろ、神の方が悪い。人は皆、平等なはずなのに神の恵みが自分には不足している。だったら、その不足分を隣人から奪っても良いではないか。私たちの罪は、そういう所に顔を覗かせます。カインとアベルの物語の根底には貪りの罪があります。神は弟アベルの捧げ物に目を留め、兄カインの捧げ物には目を留められませんでした。どうしてでしょう。これは聖書の謎です。神の思いの全ては私たちには知り得ない。神だけがご存じ。けれどもカインは、神にそれを問うことはしませんでした。彼は顔を伏せたままです。神はカインに言います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」カインは、おそらく神に対して不誠実を感じたのだと思います。だから怒った。しかし、神に向かって訴えることもできたと思います。けれどもしなかった。
 ヨブ記に出てくるヨブは次々と自分に不幸が襲いかかった時、彼は神を訴え続けました。幸いな友人を妬み、奪うことはしませんでした。主イエスも神に問う方でした。十字架の上で叫びます。わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか。三日後、神はこの叫びに復活という仕方で答えます。カインも問うべきでした。しかし、彼の怒りと妬みは神に向かわず、兄弟アベルに向かい、彼は弟を殺しました。何かが起こった時、なぜ?と問うても仕方がないことだとどこかで分かっていても私たちは原因追及をやめられません。神にしか分からないことがある。けれども、やめられない。乾き続ける。そして、その乾きを人から奪って満たそうとしてしまう。
 ヨハネ福音書に主イエスと盲人との出会いが描かれています(9:1-)。弟子たちは言います。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。」主は答えます。「神の業がこの人に現れるためである。」これは乾きに対する答えの一つと思います。ヨブへの答え、主イエスへの答え。そして私たちへの答えです。この盲人は主の言葉を信じて動き出したとき、ずっと求めていた光を得ました。この戒めは貪る思いなんて心に浮かべてはならないと言っている戒めではありません。不足を感じ、乾く時、主から顔を背けて隣人から奪うことで自分を満たすのはやめなさい。私に求めよという神の願いが溢れた戒めです。
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説教題「隣人への信頼」

日時;2月14日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
出エジプト記20章13−17節
礼拝順序
 第9の戒め、「隣人に関して偽証してはならない」を聞きたいと思います。「偽証」とは法廷用語です。あまり身近ではないかもしれません。けれども、聖書の時代、裁判は身近な出来事でした。その時の最も大きな証拠は人々の証言でした。しかし、第三者だけでない、事件の当事者に対しても、訴え自体が偽りの裁判を起こすことも戒められています。そうすると身近な戒めに聞こえてきます。気に入らない人のことを指して、いつもあの人は悪いことをしているから、きっと、今回もこの人が犯人だろう。憶測のような証言が飛び交うことがあります。不確かなまま、ありもしないことを言って人を罪に定めてはならない。つまり、聖書は日常の中で空しい証言をしてはならないと戒めているのです。
 宗教改革者のカルヴァンは偽証の行き着く先には殺しがあると言います。「隣人に関して偽証する者は、隣人から盗む者であり、偽りによって害を及ぼし、隣人を殺すことになる」。偽証は命に関わります。本来、裁きは神に委ねられていることです。しかし、神の裁きを待てない人間は法律家に裁きを委ね、それも待てない私たちは日常的に人を裁くことをします。だからこそ、その時あなた方が何をしようとしているのか、気をつけなさいと十戒は注意を促しているわけです。偽証は相手を殺すことに至る。他方、真実を証言するとどうなるか、聖書はあなたが死ぬと言います。殉教です。証言者という言葉と殉教者は聖書の言葉では同じ。人は真実を証言するとき、同時に殉教者でもあるのです。
 「自分に嘘をついてはいけない」という言い方があります。例えば、会社の不正に対する内部告発も、自分を偽れないという思いから起こることです。しかし、同じ状況でも、もし、その不正に対して心の整理がついてしまったら、仕方ないことなのだと言って黙認してしまうこともあるかもしれません。自分を偽らないという時、真実や正義の基準は自分の中にある。全ては自分の心次第です。それでは真実が何であるか分からなくなります。だからこそ、主の前における真実を語ることが求められています。そして主の真実を証言する時、私たちは殉教者になるのです。例えば、誰の目にも悪いとわかる出来事が起きた時、しかし、それを赦そう。主が罪を負われたように、この人の弱さを私たちが負おう。そう言ったら周りの人はどう言うでしょう。あっという間に私の声はかき消されて、そこに立ち尽くすしかない。言い出した勇気は殺されてしまいます。しかし、にもかかわらず、それでも真実を語れと命じるのはなぜか。そこにこそ、私たちの救いがあるからです。
 少し視点を変えて、神の隣人である私に対する偽証ということを考えてみますと、私たちは何か失敗をした時や、思い通りにならないことが立て続けに起こったとき、「こんなはずじゃなかったのに」という思いになります。そして自分を責めるか、人や周りの環境を責めて妬んだりすることがあります。けれども、「こんなはずじゃなかった」というのは自分で作り出した理想の姿です。その理想にならない自分に苦しんでいる。私たちの苦しみの多くは周りではなく私たち自身なのだと思います。そして、そういう苦しみの中にある時、神さまを見ていません。ある人は「自分でさえ、自分を受け入れられないときでも、神は、あなたを受け入れてくださっています」と言います。ある方はいつも可愛いクッキーを作ってきてくださいます。例えば、その一つが自分は変な顔をしている失敗作だと呟いていたら、なんだか可笑しい。造られた者が勝手に自分で失敗作かどうかを決めてしまうのは可笑しいことです。けれども、その可笑しいことを私たちはやってしまう。自分はこんなはずじゃないと言って神の思いを踏みにじります。神の眼差しを忘れて自分に正直に生きるとき、私たちは自分の描く「こんなはず」の住人になってしまうのです。しかし、私たちは、たとえ自分の思った通りでなかったとしても神に愛されて造られたものとして無限の価値を持っています。その眼差しの中で言葉を語るのが聖書の言う真理の証言です。造られたものには目的があります。例えば、クッキーは人を殴る為に作られたのではない。人の喜びの為です。私たちも互いに愛し合う者として一人ひとりを神の目に尊い価値の高い者として造られました。その神の思いを知って、主の愛に基づく真実を語るのであれば、ひとり立ち尽くすことになったとしても天の喜びはどれだけかと思います。
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2018年06月15日

説教題「すべては主のもの、という戒め」

日時;2月7日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
出エジプト記21章12−17節
礼拝順序
 十戒の第八の戒め、「盗んではならない」を聞きたいと思います。盗みと聞くと、人の物を盗むことを考えます。けれども、この戒めは同時に人を盗むことをも戒めています。誘拐の禁止です。どうして十戒がこれを禁じるのか。人を盗むことであれ、人の物を盗むのであれ、それは神の所有物を盗むことになるからです。神に対して盗みをするとき、神との関係は崩れていってしまいます。誘拐・人を盗むということの本質は、相手の自由を奪って自分の為に利用する所にあります。本来、人は皆、自由な存在です。それを自分の自由の拡大のために盗む。もっとお金があれば、もっと時間があれば、もっと人が自分の為に動いてくれたら、自分はもっと楽に自由に暮らすことができるのに、と誰もが思います。人は不足を感じているとき、もっともっとと願います。人と比べてうまくいっていない、不足していると感じるとき、奪ってでも満たしたいと思う。自分が得ることだけに一所懸命になってしまうのです。神に愛されていることに不足を感じるとき、人に認めて欲しくなります。不正を働いてでも自分ができる存在であることを認めて欲しくなってしまう。この戒めには、私が与えているものに、もっと目を向けて欲しいという神の願いが込められていると思います。
 私たちは、普段、人の自由を不当に盗みたくない、自分の為に人を利用なんてしたくないと思っています。しかし、そう願いながらもうまくいきません。特に相手に親身になっているとき忘れてしまうのです。あるキリスト者の夫婦とお会いしました。自分の子どもは、親の言うことを聞くばかりに生きるのではなく、神が自分に示された道を自分自身でそれに応えて歩んでいって欲しいと思っていると言ってしました。けれども、いざ、子どもが大きくなって、自分はこのように生きたいのだと話してくれたとき、それは反対だ、駄目だ。これはあなたの為を思って言っている。そう言ってしまった。このご夫婦は、自分たちの子といえど、それ以前に子は神のものであることを知っていました。けれども、その時になったら、気持ちがついて行かなかったのです。いつの間にか、神の手から奪って自分たちの手の中に入れようとしてしまっていた。私たちは祈るときが必要です。主が導いてくださる道に、子を歩ませてください。そして、いよいよ、その時が来たら親もまた、それに従うことができますように、と。
 盗むなと言われた時、人の物に手を出すな、自分の物で満足せよと受け取るかもしれません。けれども、聖書は、その私たちの持ち物と思うものまで、それは誰のものか、と問うてきます。貧しい者を苦しめること、人の叫びをそのままにすること、それも盗みである。なぜなら、私は憐れみ深いからであるという主の言葉があります(出エジプト記22:20-)。「落ち穂拾い」の絵画があります。そこでは土地を持っている農夫は隅々まで借り入れてはならないと命じられています(レビ記19:9-)。落ち穂は貧しい人、寄留者たちのものなのです。農夫の土地のものであるにも関わらずです。神が憐れみ深い方である故に。落ち穂を分け与えない人は神の目には盗人なのです。そうであれば、この戒めの成就は、ただ盗まないと言うだけでは十分ではありません。新約のエフェソ教会への手紙には、盗みを働いていた人への言葉が記されています。「盗みを働いていた人は、今からは盗んではなりません。むしろ、苦労して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(4:28)今からは自分で収入を得なさいでは終わりません。自分の手によって、分け与えることのできるものが与えられたことを喜ぼうと言っています。聖書の言う盗まない生き方とは、私は盗まないと言って誇ることができるようになれれば良いのではない。与える為に生きるということ。その喜びを知って生きるということです。
 パウロは、献金を話題にしながら、種まきの話をしています(Uコリント9:6)。私たちが持っていると思っていて実は与えられているものは、皆、何かの種だというのです。種は大事にとっておいても花は咲きません。必要なところに蒔いたとき、与えたとき、少しずつ育ってゆきます。何をどこにということは、それぞれの生活の中で見つけてゆくものですが、主は私たちにたくさんの種を与えておられること、気がついてみたい。主の憐れみに重ねるように生きることを始めたいと思います。
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2016年06月17日

説教題「神の前に立つ共同体のための戒め」

日時;1月31日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
マタイによる福音書5章27−30節
礼拝順序
 十戒の第7の戒め「姦淫してはならない」を聞きたいと思います。日本語の辞書で姦淫を引くと「不正な男女の交わり」と出てきます。いわゆる不倫です。けれども、これを不倫の禁止と読み替えてしまうと、この戒めを小さなものにしてしまうことになります。「姦淫してはならない」が第一に言っているのは婚姻関係を害することの禁止、結婚の破壊の禁止です。積極的に言い換えれば、結婚の誠実さを求める戒めとも言えます。さらに広げれば、約束に対する誠実さを言っている戒めです。
 どのような思いで神がこの戒めを定められたか、天の御心を主は教えようとしています。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」「他人の妻」という言い方ですが、言わんとしていることは異性をということです。主は目や心をも問題にされています。
 こういうことを聞くと、あの人はどうか、この人はどうか気になります。けれども、十戒や聖書の言葉は人に向かって読むものではありません。自分に向かって読むものです。十戒には三用法があります。一つ目は倫理や道徳として用いる用法。十戒は、この枠の中で生きなさいと神が命じて人に与えられた倫理です。二つ目は自分の罪の姿を知る為に用いる用法です。守れていると思っている自分、しかし、その本当の姿に気がついてほしい。主イエスがなさっているのはこれです。そして三つ目は、今まで守れたか否かを問わず、これからは守ろうと思って十戒を肌身離さず持ち歩くことです。私についてきなさいとの言葉に応えた弟子たちは何度も躓きながら、自分の罪に気がつかされながら、しかし、それを赦されたことを知らされながら歩き続けました。主と共に歩むというのは十戒とも共に歩むということです。
 主は、どうして私たちの今の心の中まで気にされるのか。今のあなたに気がついて欲しいということに加え、将来に立って今の自分を見て欲しいと願っておられるからです。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」と言われています。地獄の話がされています。地獄は将来のことです。将来、皆、神の前に立ちます。終わりの時には全ての意味が明らかになると言います。苦しみの意味、喜びの意味がわかります。私たちの全ても明るみに出ます。その時、その男女が共に立てない関係になってはいけない。妻は夫と共に立てるか。主はその将来の視点に立って今を顧みて、時が来たら一緒に立って欲しいと願っているわけです。
 心を問う、この戒めは神の心にも関係しています。姦淫という言葉は預言書に多く出てきます。例えばホセア書です。神はホセアに命じます。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(3:1)ホセアにはゴメルという妻がいました。しかし、彼女は他の男のところに出て行ってしまう人でした。そのゴメルの所に行け、買い戻し、連れ帰れと神は命じているのです。彼はどんな気持ちであっただろうかと思います。神は、その時の思いが私の思いだと言われます。ホセアは相手を赦して迎える度、神の心が分かってくるのです。
 神はイスラエルの父祖、アブラハムとの誓約の言葉の故に、エジプトからその子孫を救い出し、守られ、愛される方でした。神は誓約・約束の言葉に忠実な方です。そして結婚式の誓約の言葉は神の誓約のひな形と言われます。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ書5:25)ある人は結婚生活とは神の愛を知る学校だと言います。キリストがご自分を犠牲にして私たちを愛したように夫婦は共に愛することを誓う。主イエスが、私たちの心の中まで問われるのは、この神の愛の元へと立ち返らせ、迎えるためです。短い言葉のこの戒めには主の誠実な思いが詰まっています。
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説教題「命は誰のものか」

日時;1月24日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
創世記9章1−7節
礼拝順序
 十戒の第六の戒め「殺してはならない」という言葉を聞きたいと思います。なぜ、殺してはならないのか、その理由ははっきりしています。命は神のものだから、あなたの勝手にしてはならない。私の命も私のものではありません。神のものです。まして、他の命は私が自由にできるものではないのです。
創世記には、人に動物の肉を食べることが許された時の言葉が記されています。
 「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」神が天地を造られたとき、人は実のなる植物や穀物を食べるように命じられていました。ここで初めて動物を「あなたたちの食料とするがよい」と言われます。そして同時に注意も為されています。「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」
 血は命の象徴でした。動物の肉を食べと良いと言われたからといって命を自分の自由にしてよいのではない。命は神のもの。しかし、食べてよい。生きるために神のものを頂いていること彼らは動物を食べるために殺す度、食前の祈りをする度、思い起こしていたと思います。
 加えて人の命に対する賠償のこともここで言われています。「あなたの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。・・・人は神にかたどって造られたからだ」。血を流すというのは、命を奪うこと、殺すことです。そのとき、神は必ず報復すると言われます。人は神ご自身にかたどって造られた大切な存在だから、誰であろうと手をかけることは許さないということです。神はここで、私たちの命に対して絶対的な所有権を主張しています。
 この戒めには目的語が記されていません。その為に私たちは、この戒めの範囲を小さくして自分の生活から遠ざけようとしたくなります。けれども、主イエスはこれを拡大されます。「…昔の人は、『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも、裁きを受ける…(マタイ福音書5:21-)。」。「昔の人は」というのは旧約のことです。主イエスは私たちの知っている戒めを徹底されるのです。主の祈りで「御心が天になるごとく、地にも」と祈ります。主は地上のあなたがたは、こう知っているでしょう。しかし、天の思いはこうだと仰って、腹を立てる者、馬鹿、愚か者と言う者、それも殺人だとお教えになるのです。『ハイデルベルク信仰問答』では無視をすることに既に殺人の根があると言います。存在の否定です。もしも、学校や会社で一日中無視されてしまったら、もう来られなくなってしまうと思います。そして、家に帰っても家族に無視されたら。家にも居場所はなくなってしまう。もう生きてゆく力はなくなってきてしまうと思います。人の心に血を流すことは簡単です。その人の大事にしているものを貶すだけでよいのです。それを言うだけで、人を殺すこと、人の心から命を取ることができてしまいます。それを思うと、私たちは、この一つの戒めですら十分に守れない存在なのだと思います。不思議なことに、十戒は守りなさいと命じられていますが、守れますという保障はされていません。ある意味では、人には十分に行うことのできない戒めなのです。
 今年度の教会聖句は「み言葉を行う人になりなさい」です。ここで言う「行う」とは、御言葉を一心に見つめる人、その言葉に留まる人だと言われています。十戒は、できるできないを計るものであるよりも、いつも傍らに置いて、今の自分の姿や、神の思いに気が付くためのものなのだと思います。
 放蕩息子のたとえ(ルカ福音書15:11-)には罪や言いつけ(戒め)という言葉が出てきます。次男は父の言いつけに背きっぱなしです。しかし、我に返って父のもとに帰って来たのは、いつの間にか戒めを踏み越えていたことに気が付いたからです。彼は今の自分の姿を十戒に照らしたのです。そして、父は帰って来た次男を喜んで迎えました。主イエスの言葉は時に厳しく、私たちへの裁きの言葉でもあります。しかし、その裁きをご自身が担おうとしているからこそ、おっしゃった言葉でもあります。主が裁きを担ってくださるのは、私たちが父のもとに帰って行くことができるためです。
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説教題「時を思う戒め」

日時;1月17日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
使徒言行録16章25−31節
礼拝順序
 再び「あなたの父と母を敬え」という十戒の言葉を聞きたいと思います。十戒は二つだけ、何々せよと積極的な言い方をしているものがあります。安息日の言葉と、この戒めです。そして、どちらも「時」に関する戒めです。安息日の戒めが時に関するものであることは明らかです。そして父と母を敬えという戒めも父母と子、先祖と子孫という時の中に自分があることを教えます。信仰告白という言葉は「同じ言葉を言う」という意味があります。代々の聖徒たちと同じことを私も言う。信仰告白は、このような時の中に広がる信仰の話をしているわけです。父母を敬えと言うとき、自分もそういう大きな歴史の中に存在していることを思い起こします。
 けれども、誰もが父母と同じ信仰を持っているわけではない。大きな信仰の歴史の中に自分を発見したとしても、それで直接に父母と繋がることはできないという方が殆どではないかと思います。その場合、この戒めは意味をなさないのでしょうか。そうではないと思います。安息日の戒めが、主の創造の業を思い起こす為の日であったように、父母を重んぜよという戒めも主の創造の業の中に生きていることを思い起こさせます。
 誰もがヘソを持っています。ヘソは父と母を通して造られた被造物であるというしるしです。私たちは最初から自立していたわけではなく、おむつを替えてもらったり、教えてもらったり、そういうことを恵みとして与えられてきた存在、ずいぶんと依存的な存在です。しかし、いざ自分で様々なことができるようになると、途端に人の不十分な所が許せなくなってしまいます。思い返してみると、私たちが腹を立てるのは、相手が子どもじみた事しているからというものが殆どだと思います。
 嘘をつく、約束を破る、遅い、自分のことばかりで人のことを考えない。皆、子どもっぽいことです。それらの積み重ねで赦せなくなります。けれども、その時、自分もわがままで何もできなかったこと、自分のことばかりであったことを忘れてしまっているのではないかと思います。人は助けてもらわなければ生きてゆけないのは、子どもの時だけに限ったことではありません。いくら歳を重ねても、本当は助けてもらわなければ、恥を愛で覆ってもらわなければ生きてはゆけません。それなのに、誰も助けてくれないから、一所懸命自分で頑張る。そして、自分は頑張っているからこそ、人のミスを赦せなくなってしまう。
 父と母を重んぜよ。父母の重みをしっかりと受け止めるとき、自分も誰かに助けられて生きてきた存在であることも思い起こすことができるのではないか、人のミスを見る時も思い起こせるのではないかと思います。
 私たちにとって赦すという事は自分の心の広さに依って我慢することだと思っています。だから、約束を裏切られても1、2回は赦すことができる。我慢することができる。けれども、10回、20回になると、もう約束はしなくなる、関係を切ってしまうと思います。私たちの赦しとは我慢の限界が来たら疎遠に至る赦しです。けれども、親や自分に近い存在の人は関係を切ることができない。だから、わだかまりも消えることがないのではないかと思います。
 赦せない相手から離れること、それは確かに、時に必要なことです。しかし、それは暫定的なことであって救いではありません。救いは神から来ます。人を赦したくない時、いかに自分が被害者であるか、私たちは幾らでも理由をあげることができます。しかし、聖書は、また別のことを私たちに告げています。この時、一番悲しみを負っているのは神ではないですか。互いに愛し合うように一人ひとりを造られ、今支えておられる神の思いを踏みにじっていないですか。
 主イエスは、神の悲しみを背負って十字架に掛かられました。私たちが負わせた悲しみ、痛みです。私たちは主に背負われているからこそ、今、礼拝にやってくることができます。その礼拝を通して知らされます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」この救いは私だけでない、家族も一緒に主に担われると言っています。私たちの家族、離れることのできない近い隣人、それは私たちだけで負っているのではない。主が共に背負ってくださる。主に私が担われ、家族も担われていることを知るところから、赦しの生活は始まってゆくのだと思います。
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説教題「あなたの父と母を敬え」

日時;1月10日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
申命記6章20−25節
礼拝順序
 十戒は二枚の石版に記されたと言われています。一枚目には神への愛の言葉、二枚目には隣人への愛の言葉。その隣人愛の戒めの最初が「あなたの父母を敬え」です。隣人とは私たちに近い人たちの事です。その最も近い人は父母。生まれる前から養われてきた隣人です。この戒めを聞いて聖書も親孝行をせよと命じていると感じる方もあるかも知れません。けれども、少し違います。もしも親孝行の戒めであれば、その目的は父と母の長生きということになりそうですが、十戒はこう続きます。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」父母のことでない。神が、あなたここにと命じられた土地で、私たちが長く、幸いに生きる事ができる。誰もが長生きをしたいと望むかも知れません。しかし、神御自身もまた、それを望んでおられます。その為に、まず最も近い隣人である父と母を敬え。それが要になるというのです。
 聖書のいう「敬う」とはどういう意味か。聖書の言葉では「重んじる」、「重みを与える」という言葉が使われています。父と母を重んぜよ。自分の父、自分の母。その相手に相応しい重みをきちんと自分で理解すること、その重さを知って生きる事が命じられています。
 父母と関係なく自分は生まれたという人はいません。私たちの生活・命は両親との関わりの中で始まりました。そして同時に、その父と母に神があなたという命を委ねられたことも見逃せません。あなたを、この父母に、この場所にということです。そうであれば父と母を軽んじることは自分の命を軽視することに繋がってきます。時に生まれた境遇、場所を呪うことがあるかも知れません。しかし、不思議な事に、自分に起こった嬉しかったことの一切は、神が、他でもない、その両親、その場所を通して私に与えられた。感情的にはそう思えなくとも、存在論的に言えば、大切な人との出会い、感動、悲しみ、その全ては、その父母なくしてはあり得ない。それ故、父母を重んじることと自分の人生を重んじることは切り離せないのです。それは神との出会いもそうです。聖書は「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」、私たちの今日があるのは、主が私たちの祖先・父母を導き出したからと言います。しかし、だから両親に感謝せよと言うのではありません。聖書は、ここで約束に誠実な方である神の話をしています。神が救いの契約を為さったのはイスラエルの人たちではありません。アブラハムです。彼らの父祖アブラハムとの約束に忠実である故にイスラエルの人たちは救い出され、今も神は彼らの神でいてくださる。先祖との約束を今も果たしてくださっているのです。
 場合によっては、私たちは人間的に父と母を赦せない、愛せない。十戒の言葉が他の何の言葉よりも重くのし掛ってくることがあるかもしれません。敬うどころではない、憎しみの為にねじ曲がった人生を作らされてしまった。そういう方もあるかもしれない。けれども、一度、聖書の言葉を素直に聞いてみたいと思います。家族の間には、いつの時代も緊張があったようです。旧約にも度々出て来ます。おそらく、人が生きる時、どちらが悪いというのではなく、何かしらの歪みはできるもののようです。そして、その歪みからの解放は人の力ではどうにもならない。ただ神が担ってくださることによってのみ、私たちは救われます。私たちは、その人を赦せないけれども、神はその人を愛しているが故に、今の私たちがある。その人の不誠実さに関わらず主は誠実にです。
 聖書は、主はあなたの祖先を愛されたが故に、その子孫であるあなたがたを選ばれたと言います(4:37)礼拝者である私たちの今の姿から、神が私たちの両親を愛されていたことがわかるのだという言葉です。主イエスが父と母を捨てなさいと仰る場面があります(マルコ10:29-)。その本意は、この神の愛の中で関係を受け取り直してほしいということです。私たちの神への賛美の源にも、私たちの感じる嬉しさの源にも、父と母に対する神の愛があります。その事実を素直に信じ受けとめる時、いつのまにかねじ曲ってしまった人生に対する解放があるのだと思います。そして、誰かの父と母になっている私たちに向かって主は命じられます。「将来、あなたの子が・・・尋ねるときには・・・こう答えなさい。」主の誠実の中に生きる者として、それを伝える役目も果たして行きたいと思います。
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説教題「安息日の主は誰か」

日時;1月3日/2016年10:30より;向河原教会 主日礼拝
マルコによる福音書2章23−28節
礼拝順序
 「ハレとケ」という言い方があります。ハレが非日常、ケが日常。ハレの日は仕事をしない日です。仕事を中断して祭りをする日です。例えば正月、成人式、結婚式など。けれども、楽しいお祝い事以外にもハレの日が実はあると思います。会社勤めしている方は出社している間、そこはハレの舞台です。毎日の務めだから、会社は日常でしょうと思うかも知れません。けれども、家族の結婚式の日に、今日は家でゆっくりしたいので、やっぱり行かないということが許されないように、子どもが泣いているので会社を休みますでは通らない。日常に優先して仕事がある。つまり、私たちは毎日ハレの生活をしているわけです。
 ハレの日というのは或る意味で、その人が主役になる日です。勤めに出ている人もそうです。自分の成果が認められるためにがんばります。ハレの日は自分を認めてもらおうとする日です。しかし、そうであえば、私たちの毎日は、気が付かない間に無理をしている毎日なのではないかと思います。もしも、毎日がハレの日、祭りの日なのであれば人は日常を失います。休みなき生き方では人間としての本当の生き方は分からなくなってしまいます。だからこそ、神は安息日を定められました。安息日は人の祭りごとを中断して、本当の日常生活を取り戻す日。「け」を取り戻す日。確かに、安息日・主の日はハレの日です。集まって礼拝をします。けれども、その目的は私たちが休むことにあります。休んで、神の前にある一人の人であることを取り戻す日です。
 今日はマルコ福音書に書かれている安息日の言葉を聞きました。主イエスの言葉です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」多くの人たちにとって、人は安息日の為にあると考えられていました。かつて、エルサレム神殿を失って礼拝が出来なくなった時、安息日の意味は大きな意味を持ちました。異教の国の中で、七日毎に家族揃って休むことによって、イスラエルはどこに行ってもイスラエルであり続ける事ができました。しかし、それが転じて、安息日を守ることが、自分の正しさ、自分の義を計る物差しになってゆきました。守っていれば神の民イスラエル。守れなければ罪人。戒めを守ることが、その人の功績として数えられるようになっていったからです。本来、安息日は神の御業が、今も私たちの間に起こっていることを覚える日であって、神の恵みを味わう日でした。それを、いつも通りの仕事をしたままでは、気が付かないからこそ、日常の手を辞めて、神の御業に心を向ける。それなのに人を生かすはずの安息日が、自分を縛るものになっていました。だから、心の中では解放されたいと思っていました。
 主イエスは「安息日は人のために定められた」と言った後「だから、人の子は安息日の主でもある」と仰いました。もしも、安息日の規定からの解放を告げるのであれば、安息日は人のためとだけ言えば良かったのです。けれども、主は続けて「人の子は安息日の主でもある」と仰いました。「人の子」という言い方は、主イエスが神である事を現されるときの言い方です。主イエスが、御自身を安息日の主だと主張されたのは、安息日は人の義のためにあるか、神の義のためにあるのかということです。安息日は、人が自分の義を立てようと企てる日常を中断して神の義を覚える日です。善いこと、命を救うことを人の義(=人に正しいと認めて貰う)の為に行なう事は安息日以外にもできます。
 もしも、安息日に行うのであれば、それは神の義(=神の前の正しさ)を求めてのことなのだから、神の業の参与として行いなさい。今、神の善き御業が、自分の手を通して起こっていることを喜びなさい。自分の功績の為の手の業は全て休みにしなさいと言っているわけです。そもそも、私たちは自らの業で神の義を立てることはできません。代わりに主イエスが為してくださいました。主イエスは、神の義よりも人の義に生きてしまう私たち、その為に休むことを忘れてしまう私たちの為に苦しみを受け、十字架に掛かり、安息日に行われるべき神の義を全うされた方です。だから、イエスは安息日の主なのです。主の日は、神の前の正しさを思う日です。即ち、主イエスの御業を思う日です。新しい年も、主の日の度、心や手や口で、その主を誉め讃えることができますように。
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